30代メンヘラ派遣社員のブログ

派遣労働、生活保護、七原くん(配信者)ネタを主に書いています

「家族の絆」なんてオワコンになればいい

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「家族」ってなんだ

www.nicovideo.jp

最近、この「ザ・ノンフィクション」の動画を深夜に何度もループ視聴している。

ギークハウスで暮らしているphaさんやその周辺の人々を見ていると、他人同士なんだけど家族以上に仲良く楽しそうに生きているように見える。

僕自身の話に置き換えてみても、僕は血の繋がった家族たちと生活をするよりも、東京都練馬区にある「カフェ 潮の路」に集まる元路上生活者のお爺さんたちと話をしたり、一緒に都内のイベントに参加したりする方が、何倍も楽しい。

実は、僕はもう2年ぐらい実家に帰っていない。年末年始やゴールデンウィークなどの大型連休になる頃にはよく「実家に帰らないの?」と聞かれるのだが、帰る気は全くない。というか、現在は家族とは完全に音信不通にしている状態だ。

日本人は「血」を大事にしすぎ

なぜそんな事をしているのか。単刀直入に言えば、家族が「嫌い」だからだ。たとえそれが血の繋がった人だとしても、嫌いな人間と一緒にいては人生が不幸になるし、仮に血が繋がっていなくても、信頼し合える人と生きていく方がいいと僕は考えている。

しかし、今の日本でそれをはっきりと公言してしまうと、もれなく「人でなし」や「恩知らず」というレッテルを貼られてしまう。今まで血縁を最重要視してきた、いわば「血縁原理主義」な人々には、にわかに受け入れがたいのはよく分かる。だが事実として、自分以外の人間は、どこまで行っても他人には違いない。仮に双子でもだ。

日本で生きてきて思うのは、みんな「家族」というものを重たく考えすぎているのではないだろうかということだ。重要視するのはいいことだが、今の世の中はそれを超えて重たすぎる。これが日本の国民性なのか。もしかして、神話の時代から長らく「天皇家」を血縁者で固めてきたのも、この精神に基づいているのだろうか。

生活保護制度に関して、自民党が「扶養義務を強化することが、家族の絆を強めることに繋がる」みたいな発言をしていたが、冗談じゃない。そんなことをすれば、生活保護を受けようとする人はさらに減少し、ただでさえ低い捕捉率がさらに低下してしまう。その先に待っているのは、餓死者の増加だけだ。

たしかに学生の頃は家族に養ってもらっていた部分はあったし、そこに関しては感謝の気持ちはある。しかし、合わないものは合わないし、合わないにも関わらず家族というものに固執しすぎると、逆にお互いに不幸になってしまうだろう。僕らは何のために生きるのか。それはひとえに、幸せになるためである。

結婚や「イエ」制度はオワコン

そもそも、結婚制度なんてものもすでに過去の遺物だ。戦前の日本は農家が圧倒的多数を占めており、それを代々受け継いでいかなくてはならなかった。だから日本人は「イエ」制度を作り、長男をあたかも「一番エラい人」のように配置し、そこに嫁になる女性を嫁がせることによって、イエと田畑を守ってきた。

しかし、現在の日本で農家をしている人はどんどん減ってきている。今や大多数の人間がサラリーマンである現代の日本に、果たして結婚やイエ制度を忠実に守る必要があるのだろうか。僕はないと考えるし、長男が上だ次男が下だというしきたりは、本当にアホらしいと思う。こんな歪んだ常識は、さっさとオワコンになるべきだ。

今の時代は、インターネットやその中にあるSNSを使うことによって、世界のどこの誰とでも簡単に繋がれてしまう。インターネットが家族の絆を破壊した。それは良いことであり、同時に時代の流れであり、いつまでもそれらに固執するのは時代遅れである。

「他人が繋がる場」が増えてほしい

前述した「カフェ 潮の路」や、ギークハウスなどのシェアハウス。また、新潟県十日町市の山奥にある「ギルドハウス」という住み開きの古民家や、和歌山県の山奥にあって「山奥ニート」で有名になった「共生舎」などなど。これからは、こうした「他人と暮らしを共有する場所」がどんどん増えてくるだろう。非常に良いことだと思う。

こういう場を活性化させるために必要なこと、それは人々がもっと「別に家族と一緒じゃなくてもいいや」と積極的に家族やイエを「捨てる」ことである。

極端な意見だ、歪んだ意見だと言われるかもしれないが、日本での生きづらさの大部分抱えている「世間体」をかき消していく一番いい方法。それが、他人同士が繋がる場をもっとポピュラーにすることである。そうする事によって、互いの多様性を認める力も磨かれていくに違いない。

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